東京都のIさん(36歳)に話を聞きました。
2011年4月から12月末まで栃木県の日産の工場で働いていました。
派遣社員をやっていたのですが、ちょうど契約が終わってしま史、どうしたもんかと思っていたら、インターネットで給与や待遇がいいことを知って応募しました。一度工場で働いてみたいと思っていたことも理由の一つです。
病気の有無やこれまでに工場で働いた経験があるかどうか、体力に自信があるかどうかなどを聞かれました。特に病気などしていなかったので、健康で体力にもそれなりに自信がありますと答えました。面接官の方は丁寧な印象でした。
自動車の扉のはめ込みの仕事をしていました。労働時間は通常は朝から夕方までが基本で、たまに夜勤もありました。工場は広くて清潔でしたし、とにかく人の数が多かったので、流石に大企業の工場はすごいと思いました。
時給制でしたが、かなり給与は高かったですす。何か月か連続して勤務すると、いくらかもらえるのと、期間を満了するときも満了金がもらえるので、最後まで頑張って両方貰うことが出来たので、結構いい金額になりました。
寮は一人部屋でした。食堂で食事もかなり安い値段で食べることが出来たので、朝は出勤する前に必ず食べるようにしていました。値段の割には結構がっつりとしたごはんで、いかにも体力を使う仕事の人向けの食事だなと思いました。
工場に勤めるのが初めてだったので、用語や工場ならではのルールなどが全然わからなかったのがきつかったです。最初はいろいろと周りや上司に迷惑をかけてしまいましたが、周りにも助けられて、何とか慣れることが出来ました。
それまで働いていた会社よりも、はるかにコンプライアンスがしっかりと守られていて、残業代もしっかりと出ますし、無茶な長時間労働などもなかったので、気持ちよく働くことが出来ました。工場の仕事も楽しかったです。
工場や寮にはいろいろな人たちがいて、四六時中一緒にいるので、結構仲良くなることが出来ました。工場の仕事が初めての私にも、いろいろ教えてくれて慣れることが出来たので、周囲の人たちにはとても恵まれていました。
当時は隣の県に実家があったので、たまに実家に帰っていました。それ以外は大体寮の自分の部屋でテレビを見たり、持ってきたゲームをしたりと、自由に過ごしていました。日曜日の夜は早めに休むようにしていました。
工場勤務に慣れている人なら、最初から簡単なのかもしれませんが、工場が初めての人にはいろいろとなれない面もあるかもしれませんが、一生懸命やっていれば、周りの人達もフォローしてくれるので、ぜひ頑張ってほしいです。
私は、働いているうちに楽しくなってきたので、やめるときには結構さみしい気持ちになりました
コメント
昭和44年ころ冬期間に3年ほど日産自動車にお世話になりました。3年めはもう自宅に帰りたく無かったが父の轟音で帰ったのでした。日産の給与は高く私の住む地方の3~4倍でした。休みの日はかなりお金を使っても余裕がありました。休みの日はお金使い放題でした。あんなに楽しい人生はありませんでした。神奈川、東京、千葉、埼玉と休みのたびに歩いていました。通勤は京浜急行でした。
若いときの思いでは、年取ってからは作れません。
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